シャハーダに至るまで(2017年版)

はじめに


この文章は、自分がシャハーダ(イスラームへの改宗)をするまでの軌跡を2017年に振り返りつつ綴ったものです。

ただ、どちらかというと自分の修士論文ための資料として、時系列を整理するために書いたものなので、読み物としてはあまり面白くないかもしれません。

また改めて写真などを入れつつ書き直していきたいと思っています。


1.大阪での学生生活と兵庫の農村:911から

1.911と国際関係論 (二〇〇一年~)

(1)構造的暴力と自分の生活

 「えらいことなってるぞ」。兄がテレビを見ながら言っている。アメリカのビルに突っ込む飛行機、崩壊するビル。世界中に衝撃を与えた9.11だった。二〇〇一年当時、私は国際関係論を専攻する大学一年生だった。その後、アメリカを中心にアフガニスタン戦争へ。そして「テロとの戦い」「大量破壊兵器」を口実に、なし崩し的にイラク戦争へ。

 9.11以降の急激な状況の変化、リアルタイムで起こる戦争は、友達との議論の的となった。日本はどうすべきか?日本各地で反戦デモが起きる。気になりながらもデモには結局参加しなかった。デモに行ってもしょうがないという気持ちもあったけれど、それよりも、自分自身の生き方そのものが戦争の一因になっているのではないかということの方が深刻だった。

 自分自身の日常と戦争を結びつけたのは当時少し学んだ、平和学の大御所ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の概念だった。今見返すと、ガルトゥングの「構造的暴力」は軍事的、物理的な直接的暴力の概念だけではこぼれ落ちる、差別や経済格差などによる見えづらい暴力を可視化させるもののようなので、当時の自分の捉え方は少しずれていたかもしれない。ともあれ、その時は自分が生きるこの日常を支える「構造」が戦争や空爆という直接的暴力につながっている、という現実を「構造的暴力」として理解していた。

 日本は直接的にアフガニスタンやイラクに空爆を行っていた訳ではない。しかし、「後方支援」として米軍への給油等を行っていた。自分がその後方支援を決めた与党に投票しているかどうかは重要ではなかった。日本は民主主義社会である以上、国民が議論を尽くし、意思表示をした上で、政策は決定される。この「構造」において、日本は明らかに暴力の一端を担っている。そして私は日本国籍を持っている。

 複雑な政治的、歴史的経緯もある戦争の原因を「これだ!」と特定することはできないと感じた。ただ、一つだけ確実だと思えることがあった。それは石油利権の存在が、少なくともアメリカや日本の戦争へのインセンティブになっているということだった。原付で大学に行く。車で遊びに行く。遠いところから運ばれたモノや食べ物を消費する。この私たちの暮らしを守るために、自衛隊は派遣され、「後方支援」に税金が使われる。

 しょっちゅう報道される「誤爆」による民間人の被害。なぜ彼らは死ななければならないのだろう?テレビで戦争を見た後で、車で荷物を運んでいた時に、急に涙があふれ出したことを今でも覚えている。自分のこの暮らしが、遠くで人を殺している。当時喧伝されていたブッシュ大統領を中心とした「テロとの戦い」は欺瞞的だと感じた。

 ただ、その「テロとの戦い」が自分の生活に端を発している以上、アメリカを批判すれば解決すればいいという問題でもなかった。9.11の犯人にせよ、タリバンにせよ、アメリカにせよ自分以外の他者の暴力を批判するのは簡単だ。その一方で、石油をはじめとした、外部のエネルギーに依存している自分自身の生活を変えることは難しい。

 まずはできることから始めようと、大学まで7㎞ちょっとの通学を当初の原付から自転車へと切り替えた。山の上にあった大学への通学は距離の問題より、最後に長くかつ急な坂道を登らなければいけないというハードルがあった。この坂道の存在は大学側にとっても悩みの種のようだった。キャンパスが住宅地の中にあるため騒音の問題から原付での通学は制限されていたが、多くの学生が無許可で原付通学するという現状があった。

 その頃国際関係論の「ゲーム理論」の授業で、合理的行為の具体的な事例として「大学側の通達があるにもかかわらず、なぜ無許可で原付通学する学生が多いのか」を検討したことがあった。その中でも、最後の坂道を自転車で登ることのコストがバス通学をすることの時間的・経済的コストと同様に、無許可での原付通学の主な要因になっていた。「こんな状況で自転車通学するのは聖人君主ということになりますね」と笑いながら先生が言った。

 自転車で通学していた私は、聖人君主でもないのになぜそれを選択しているのか不思議に思い考えてみた。自転車はいい運動になるし、石油依存という戦争の原因の一つや大気汚染や環境破壊からも逃れられるため、精神的にも楽だった。それらの要因は講義の中で計算された「合理的行為」の判断基準には入っていないようだったが、自転車通学は自分にとっては最も「合理的」な選択肢なのだと気づいた。

 

(2)「テロリスト=敵」か?

 その頃もう一つ印象に残っている場面がある。受講した日本の「防衛白書」を読む授業でのことだった。講義の中でしばしば「イスラーム過激派」や「テロリスト」を念頭に「敵」という言葉が当然のように使われることに違和感を持った。

 この違和感は当時読んでいた本などで、「過激派」や「テロリスト」と呼ばれる人の中にさえ、アメリカの侵略に対する「自警」として武装する人も多い、ということが言われていたことから来ていた。「誤爆」が常態化する中で、不条理な暴力に対して立ち上がる人々がいるであろうことは容易に想像できた。

 そうなると誤爆にさらされる「一般のムスリム」と「過激派」や「テロリスト」が明確には線引きができない。軍事的に安全保障を考える上で「敵」を想定するのは必要だとしても、日本が国家として直接対峙していない人々まで「敵」と呼べば呼ぶほど、文字どおり敵対していってしまうのではないか、と言った思いがあった。

 そこで、講義の中で「イスラーム過激派」や「テロリスト」をあらかじめ「敵」と呼ぶのはおかしいのではないか?という質問を先生にした。「では、どのように呼べばいいと思いますか?」と問いかえされた。その問いには答えることができなかったし今でも答えられない。ただ、明確に定義されないまま「原理主義」「過激派」「武装勢力」「テロリスト」などイメージが先行してイスラームが脅威とされてしまうことに危機感を覚えた。このような状況で武力を行使することが「イスラーム過激派」や「テロリスト」を増やすことはあっても、問題を根本的に解決することはできないだろうと思った。

 理論上はこのような「安全保障のジレンマ」や「囚人のジレンマ」から抜け出すためのコミュニケーションが必要だと明確に思えたが、現実の政策ではコミュニケーションの努力がなされるようには見えなかった。

 このコミュニケーション不足が一層恐ろしいと思えたのは、冷戦期以降のM.A.D(Mutual assured Destruction)と呼ばれる核による相互確証破壊という安全保障政策を学んだ時だった。一度核を使うとお互いに破壊し尽くし合うことになる、という前提により核の使用を抑止する。狂っているとしか思えなかった。先生に、もしかしてこのM.A.Dというのはあの英語のマッドということですかね、と質問すると「そうかもしれませんね」とあながち間違っているわけでもなさそうだった。

 さらにソ連崩壊により、核技術や放射性物質が拡散し、アメリカはイラク戦争で劣化ウラン弾の使用など核の小型化を進めている。そういった状況で「イスラーム」との不必要な敵対が日本の安全保障に繋がるとは到底思えなかった。

 

 

2.あるムスリム留学生との出会い(二〇〇三年) 

 このようなイスラームやムスリムの捉え方に違和感や危機感を抱いていた背景には、その頃出会った一人の留学生との出会いも大きく関係していた。当時、母親がホストファミリーのグループに参加し、インドネシア人の留学生Aさんを迎え入れることになった。ホストファミリーといっても同居するわけではなかったが、Aさんをしばしば家に招き、また外出をともにするようになった。Aさんは私が人生で初めて接したムスリムだった。礼拝を欠かさず礼儀正しい彼の姿は9.11以降の報道で知る「イスラーム」の印象とは異なっていた。

 ある時そんな彼の真面目さを一層実感することがあった。バスで旅行中、サービスエリアで一緒に休憩していた時のことだった。初老の女性が何かにつまずいて転びそうになった。Aさんはその人を助けようと即座に身を乗り出した。呆然とその光景を見ていた私にとって、彼が何の躊躇もなく見知らぬ人を助けようとしたことは、ある意味衝撃的だった。信仰を持つということの片鱗を見た気がした。

 ほぼ同い年だったこともあり、Aさんとはいろいろな話をした。ある日、「日本人はなぜ神を信じないのか?」と問われた。とっさに「経済成長がうまく行っていた」「テレビがあった」からではないか、と答えた。資本主義とそれを支えるテレビの情報が日本人にとっての価値を規定する、宗教のようなものだと考えていたのだろう。

 そのため宗教は特に「必要がない」ものだと自分自身も感じていたように思う。同時に経済成長の限界、環境問題や世界の富の不均衡から「これからは変わるんじゃないか」と言った記憶がある。

 こういった友人との交流があったからこそ、報道や国際関係論で描かれる「イスラーム」や「ムスリム」のあり方に違和感を覚えたのだろう。誤爆にさらされる多くの一般の人々もAさんと同じく、普通の人なのだと思うと心苦しかった。

 たった一人の「他者」との出会いが持つ可能性は大きい。ただ、この時点ではAさんは「真面目な友人」であり、イスラームを「自己」と捉えるどころか、知識として学んでみようとも思っていなかった。素晴らしいものだろうけど、酒も豚も摂らないというのは自分には窮屈だ、というのが正直なところだった。

 

3.農業への興味

 戦争への自己の生の加害性を感じながら、学問では全くそのことが扱われないこと対して悶々とした日々が続いた。そんな時、大学の先生がある農家さんのところへ泊まりがけで連れていってくれた。その方は自分と同じ大学を卒業してすでに10年以上兵庫県の農村で有機農業を営んでいるという。

 山々に囲まれた畑での初めての農作業。作業後、疲れた体で頂いたごはんは、農家さんが無農薬で育てた米や野菜、自家製の味噌、庭のニワトリ小屋から取れる卵。どれも信じられないぐらい美味しかった。

 次の朝、早く目が覚めて少し散歩をした。朝もやの中の畑、こだまする犬の声、水路に流れる水の音。はるか昔から続いてきたであろうこの暮らしを、なぜ僕らは捨ててしまったのだろうか。戦争をしてまで守るものは、一体なんなのだろうか。そんなことを考えながら畑の畔に腰を下ろす。言葉にならない歌を口ずさみながら、また涙が溢れてきた。はたから見たら気持ち悪かったと思う。

 それから、しばしば泊まりがけで手伝いに行かせてもらった。堆肥を撒く、耕す、種を蒔く、草をひく、雨を待つ、収穫する、調理する、食べる。農家さんはパーカッション奏者でもあったので音楽も自給できる。これ以上にシンプルな暮らしはない。食べ物や娯楽を生産、自給する農村と、消費する一方の都市の住宅街を往復するたびにその違いを感じた。お土産にもらった土のついた野菜でいっぱいの紙袋を抱えて、都会へ向かう電車に乗るのは少し恥ずかしいと同時に誇らしかった。

 ただ「この暮らしを、なぜ僕らは捨ててしまったのだろうか」という単純な疑問にはすぐに答えが見つかった。農薬や化学肥料のような外部エネルギーに頼らず、身近な落ち葉や有機物で堆肥を作り、循環的にエネルギー効率を高めていくような有機農業の方法はとにかく手間がかかる。率直に言ってかなりしんどい作業だった。農業や自給的な暮らしへの憧れは強まる一方だったが、実際に自分が行うとなると相当の覚悟がいると思った。

 

4.即興演奏の瞬間と言葉のあり方

 その頃、有機農業の他に、アートや音楽、演劇、メディアのあり方に興味を持った。当時、インターネットがどんどん発展する中で友人がウェブマガジンを作りたいと言っていた。そこで写真、小説、絵などを書いている友人たちを誘い自分自身もパソコンや音楽機材を使って演劇の音楽などを製作し始めた。

 そのうちフリーインプロヴィゼーションと呼ばれる即興演奏に興味を持つようになった。当時の大阪では動物園前の新世界ブリッジという不思議な空間をはじめ、いろいろなスペースで多くのミュージシャンが集まっては即興的なセッションやライブを行っていた。自分自身も友人とバンドを作り、スタジオやライブで演奏した。

 即興演奏の多くは、作り込まれて、感情を掻き立てるような音楽とは違い、瞬間瞬間に生まれては消える、とても感覚的なものだった。商品化や複製することが難しい濃密な時間。やがて、自分たちの日常自体が、楽器を演奏しなくても色々な音を発し、聴く即興音楽なのだということに気づいた。目を閉じて、音をきく。集中すればするほど、普段ノイズとしてかき消されていた、絶え間ない音が鮮明に聞こえてくる。ただ耳をすますだけで、世界はこんなにも美しいのだと感じた。この日常の音を楽しめるようになること友人たちの間で、音楽家のジョン・ケージにあやかり「ケージ耳」と呼ぶようになった。

 そのような耳で即興演奏をきくと、歌詞やメロディを聞くのとは違う音楽のあり方を経験することができた。音の組み合わせである言葉が、どうしても意味を持ってしまうのに対して、即興演奏では意味ではなく、一瞬一瞬という時間と空間を共有できるということが嬉しかった。

 

 

2.福岡セネガル茨城・兵庫(二〇〇四年〜二〇一〇年)

1.就職、退職と肉食

  大学では結局、卒業論文の代わりに授業を多く取るという学部の方針もあり、まとまりのある文章を書くこともなく卒業することになった。最後に行った国際関係論のゼミ発表では、アメリカの国際政治学者ジョセフ・ナイの「3Dのチェス盤」という考え方を無理やり応用して、「今日の国際関係を考えるには個人の行動が重要。できるだけ自転車に乗るべき」や「農業の手伝いに行こう」というほとんど個人の趣味と捉えられてしまうようなことを言うので精一杯だった。

 大学卒業後は自分も就農することも考えたが、父親の反対などもあり、一度企業に就職することにした。かねてから興味を持っていたメディア関連の仕事がしたいと思い、ケーブルテレビ会社に就職した。コミュニティ・チャンネルという地域のメディアの制作に関わりたかった。

 しかし入社後は、希望とは異なり新入社員は全員営業部へと配属された。就業中は日々の大半を過ごす就職先での「営業成績」がほとんど唯一の指標となり、自己の価値観もそれに合わせて変化していった。思うように成績が伸びず思い悩み、精神的な負担が徐々に大きくなって行った。一日一日と出社するのが苦しくなる中で、やはり音楽や農的な暮らしがしたいという思いが強くなったため、それなりに貯金が貯まった一年と少しが過ぎた頃、退職することにした。

 退職後はしばらく派遣のアルバイトをしながら音楽の活動を行うと共に、時折兵庫県の農家さんのところへ行っていた。相変わらず農村へ行くたび心が休まり、少しずつ以前の価値観や感覚を取り戻していった。

 音楽や創作の活動では言語にならない声を発する即興的なパフォーマンスをしたり、ほとんど考えずに書いた言葉遊びのような詩をブログにアップしたり、当時好きだったマッケンジーという、言語が意味を持つことを逆手に取ったような作品を作るアーティストをイベントに呼んだり、といったことを通して言葉そのものを相対化することに力を入れていった。

 また、食に関して強く学びたいと思ったのが肉食に関してであった。この頃は「野菜に比べてエネルギー効率が悪い」「食肉はプロセスが不可視化されている」と言った理由からベジタリアン的な食生活をしていたものの、時々は肉を食べていたため、一度は自分でお肉も手がけてみたいと思っていた。しかし、当時は“と殺・解体”を教えてくれるところが見当たらなかった。そんなとき、たまたま友人のお父さんが家で鶏を飼っていることを知った。その友人のお父さんにお願いしたところ、快諾していただけたため、いよいよ人生初の“と殺・解体”を行う日が来た。

 かつてはうちの祖父母も庭で鶏を飼っており、時々捌いていたと母親が言っていたのでイメージはしていたものの、話で聞くのと実際に経験してみるのとでは大違いだった。刃を入れる時の、とにかく苦しませないようにしようという緊張感、解体した時の内臓の色の美しさ、調理された肉の単純なおいしさとは違う、言語化しづらい感覚、(語弊を恐れずに言えば)やるべきことをやったような喜び。

 同時に、やはり動物の命を奪うというのは精神的に疲れるもので、気づかないうちに疲れが溜まっている。体や味覚や触覚、嗅覚、聴覚、視覚と言った五感を全て使うと殺・解体は、単なる食糧の生産を超えて学ぶことが多く、全てが新鮮だった。その後も友人を呼び、また友人のところへ生きた鶏を持っていくことで、この体験を少しずつ共有していった。この時はとにかく、自分の得たことを人と共有したいという思いでやっていたが、直感的に、日常に見得なくなっている肉食の暴力性を可視化して共有していくことが、個人的な、もしくはより大きな「平和」につながっていくのではないかと思っていた。そしてのちにこの肉食をめぐる活動もまたイスラームへの改宗に重要なきっかけとなっていく。

 

2.セネガル人ミュージシャンとの出会い(二〇〇七年)

 そんな時、友人に誘われ九州へ行く機会があった。サックスやギター、ラッパーといったミュージシャンとのセッション・バンドに誘われ、北九州と佐賀でライブをしに行ったのだった。ライブや現地での人との交流はもちろん福岡の島に渡ってみたり、充実した数日間を過ごした。

 そして帰路、福岡から大阪へのフェリー上では、インドネシアからの留学生以来二人目となるムスリムの、セネガル人Bさんとの出会いがあった。ちょうど夜通し移動する船上で時間を持て余していた頃だった。ふと、一人のアフリカ人らしき男性を見かけた。酒に酔っていた私は興味本位でちょっと話しかけて見ようと思いその男性に近づいた。

 私に気づいたその人は私に「けいたいかしてください」と片言の日本語で話しかけてきた。友達に連絡したいとのことだった。携帯を貸した後、Bさんはフランス語ならできるということだったので、学生時代に習った拙いフランス語と英語を交えて話し出した。彼はセネガルからきたミュージシャンだという。

 話す中で、私の少し知っている人とバンドをやっているということがわかり、急に親近感が湧いてきた。その時、彼は「自分はムスリムだ」と言いながら、私の飲んでいたビールを欲しがったので驚いた。ビールを奢り、デッキでしばらく話したところでフェリーのレストランにご飯を食べに行くことになった。

 残念ながらレストランはちょうど閉店したところだった。デッキに引き返そうとする私を横目に、Bさんはいくつかのテーブルに置いたままになっていた他のお客さんの食べ残しを集め出した。そしてごく当然のように席に着き、食事を始めた。店員さんは見て見ぬ振りをしているようだった。

 一般的なレストランでは咎められることかもしれない。でも、放って置いても捨てられるだけの食べ残しを有効利用し、かつ私たちはタダで食事することができる。とても「合理的」な行動であるように思えた。

 食べ終わり、デッキに戻ってからしばらく話をしたところでBさんが「色々親切にしてくれたお礼に一曲歌うよ」と言い、歌い出した。

 ライラハ・イララー ライラハ・イララー!

 真夜中の、三六〇度何もない海の上に声が響く。短い曲ではあったものの、それがライラハ・イララーという歌詞だけで成り立っていることに驚いた。意味を尋ねると「ライラハ・イララー。アッラーの他に神は無し、という意味だよ。」という。

 しかし、そのアッラーが飲酒を禁じたのではないか、と問うと「飲めば飲むほどにアッラーごめんなさい、と思うだろ。そのぶん強くアッラーを想うようになる。」と予想外の答えが返ってきた。

 とても勝手な解釈なのだけれど、筋が通っていないわけでもない。「酒を飲むな」というメッセージも、その解釈や実践の仕方は多様なのだと思った。きまりを破っているからと行って、必ずしも神をないがしろにしている訳ではない。彼の歌や態度に、以前出会った真面目な留学生Aさんとは違った意味で、アッラーへの信仰心というものを垣間見た気がした。

 Bさんに「セネガルにおいでよ」と言われ、いつかね、と答えた。大した旅行経験もない自分にとって、西アフリカに行くということは、ちょっと想像もつかないことだった。

 

3.福岡へ(二〇〇七年〜)

 大阪へ帰った後、福岡で出会った人や自然環境を度々思い出し、自分でも一から畑や田んぼをしてみたいという思いが募っていった。そこで知り合った縁を頼りに福岡に移住することになった。

 福岡正信さんや川口由一さんといった“自然農”を実践する著名な方々の本の影響で福岡では化学肥料や農薬はもちろん、有機的な肥料すら使わないと行った農法を実践的に行おうとした。どれだけ自分と自然の力で野菜が育つのかを知りたかったのだと思う。同時に、夏みかん農家さんや、コスモスやヒマワリなどの広大な花畑が売りの観光公園、貝割れ大根のパイオニアの方のところでアルバイトをすることを通して、様々な形の農業に触れた。

 アルバイトでは多くのことを学んだが、自分でやろうとした畑や田んぼは結局、雑草だらけで農業の真似事と呼ぶことすらできないようなものだった。自然農法は時に雑草の刈り取りが重要となる。肥料を入れない代わりに人力でカバーする必要があるが、なかなか手がまわらなかった。それでも今から振り返ると、この時期は自分が「正しい」ことを行なっていると確信していたため、自分のやりたいことだけを優先してしまっていたように思う。今では、周囲に多大な迷惑をかけてしまっただけだったかもしれないと反省している。

 ただ、この期間があったからこそ、一から自力で食料を生産する難しさを実感することができたのだと思う。これまでも農業の手伝いをしに行っていたけれど、全て用意された上で農作業を手伝うのと、土地を借り一から始めるのとでは全く異なる。そんな当たり前のことに気づかされた。 

 

4.セネガルへ(二〇〇八年)

(1)首都ダカール 

 約一年後、日本の友人Cから一本の電話がかかってきた。

 「久しぶり。今度、セネガルに行こうと思うんやけど、一緒に行かへん?」

 パーカッションを演奏するその友人はセネガルに音楽修行に行きたいという。思いがけないセネガルへの誘いに運命を感じた。フェリーで出会ったBさんとはその後、大阪でも何度か会ったものの、いつのまにか連絡が取れなくなってしまっていた。この機会を逃したらきっと一生行くことはないだろうと思った。しばらくアルバイトをしてお金を貯めたのち、友人と一緒に行くことにした。

 セネガルへの便は明け方に到着した。日本から別々に渡航した友人が到着するまでには半日以上あった。家族旅行以外では初めての海外、しかもいきなり言葉もろくに通じないフランス語圏のアフリカ。まだ辺りは暗い中空港を出ようとして見たが、出口では大勢のタクシーや両替の客引きが声をかけてきて怖かった。

 結局「案内してあげよう」という空港職員にガイドされ、恐る恐る空港近くの島に行くことになった。着いてみると予想以上にリゾート地という雰囲気の島で、(後から観光客価格のバカ高いビールを飲んでいたことに気づいたものの)ゆったりと過ごすことができた。

 半日以上後に到着し合流した友人Cの目的は、主にセネガル南部のカザマンスで演奏される独特なパーカッションを習得することだった。ただ、セネガル南部は独立紛争の影響で外務省の発表でも危険度が高く、少し不安があった。そのため、まずは首都で情報収集をすることにした。当時は今ほどインターネットが発達しておらず、日本大使館や周囲の人々から情報を得るのが一番だと考えたためだった。

 首都では、ホテルで数泊した後、知り合った現地の人のところでホームステイをした。ライブハウスでの演奏、結婚式、セネガル相撲やサッカーの応援など、至る所で太鼓が鳴らされ、踊る人たちがいた。日本でイメージしていた通りの「アフリカ」の姿がそこにあった。

 日常の中で印象的だったのが、食事の方法だった。レストランなどで日本のように個別に食べることもあるが、普段は一つの大皿をみんなで囲み食べ物を共有する、というのが普通のようだった。旅行客とはいえ、結婚式やたまたま知り合っただけの人など、いろいろなところで食事に呼ばれる。Bさんがフェリーのレストランで人の食べ残しを躊躇せず食べていたのも、この共食の文化からしたら当然のことだったのかもしれない。

 同時に、セネガルは国民の9割以上がムスリムなだけあって、日常的にイスラームの浸透を実感することもしばしばあった。例えばアルコール類は観光客の多い街中では簡単に買えるけれど、少し中心部を離れると、途端に見つけるのが難しくなる。バーに寄ろうと思っても、看板が出ておらず、現地の人に案内されないと見つけられない。アルコールは基本的に持ち出すことができず、持ち帰る場合は瓶のデポジットを払った上で真っ黒なビニール袋に入れて見えないようにしなければならない。

 また、日常会話の多くはウォロフ語やプル語といったそれぞれの言語でなされているが、挨拶は一日中老若男女問わずアラビア語の「アッサラーム アレイクム(こんにちは/あなたに平安を)」だったこともイスラームが根ざしてきた伝統を感じさせた。

 

(2)イスラーム都市トゥーバ

 首都でしばらく過ごしたのち、当初の目的である南部へ向かうことになった。渡航に関しては大使館で話を聞き、首都の人々の反応も合わせて考えた結果、リスクを減らすために首都から英語を話すガイドを雇うことになった。

 英語を話すそのガイドはこれまでも日本人を案内したことがあるらしく、私たちのような外国人にも慣れているようだった。呼びやすさのためか、ユスフというセネガルでよくあるムスリム名をもらい、その後はユスフと呼ばれるようになった。その時はムスリム名であるというよりも、響きのかっこよさが気に入っていたように思う。ガイドは南部まで行く途中、ある街に寄りたいといった。その街は少しルートから外れていたように思ったけれど、彼に任せた。トゥーバと呼ばれる街だった。

 夕暮れごろトゥーバについた私たちは、大きなモスクへと向かった。西アフリカで一番大きなモスクの一つだという。写真を撮っていいかガイドに聞くと「ノープロブレムだ」という。そこでモスクに入り何枚かの写真を撮っていると、そこにいた人に突然「何をしている?お前はムスリムか?」と尋ねられた。私はとっさにそうです、と答えた。違う、というと追い出されそうだとか、問題になりそうだとか、その程度の返答だったように思う。

 ちょうど礼拝の時間だったらしく次々と人が集まってくる。ムスリムです、と言った手前礼拝しないわけにもいかなかったし、いい経験になると思い見よう見まねで手足を洗い、礼拝をした。礼拝を終えるとあたりは暗くなっていた。今思うと日没(マグリブ)の礼拝だったのだろう。

 私のぎこちない礼拝の様子を見ていた人が「観光客なのに礼拝までしてすごいですね。」話しかけてくる。見るからにおかしかったのかもしれなかったが、そう言われてほっとした。彼はさらに「あなたたちのために祈ります。」といいだした。

 ライラハ・イララー!

 大阪行きの船上で聞いたのと同じような声とメロディ。不思議なことにその声が響く半径50mぐらいの空気や動きがピタリと止まったように感じた。モスクでの大勢の人との礼拝やこのメロディを通じて、同じものを共有するということの一体感を少し体験できたような気がした。

 その夜はガイドの親戚の家で一泊することになった。ご飯を食べ終わった頃、ガイドがタバコを吸いたいから隣町まで行くという。なぜわざわざ隣町までいくのか、と聞くと「トゥーバでは音楽やアルコール、タバコなどイスラームに反するものは全て禁止されている。」というので驚いた。こんなにも音楽や踊りが盛んな国で? ただ、信仰に生きる人々びとの姿からは息苦しさは感じなかった。

 次の日、明るくなったトゥーバの街を歩く。活気があり、市場では多くの人が行き交う。ふと、不思議なことに気づいた。いたる所で円を描き歌っている人がいる。音楽が禁止されているはずの街で。この歌については、7年後の再渡航でまた詳しく知ることになるが、この時は一泊のみでトゥーバを後にし、南部のカザマンスへ向かった。

 

(3)セネガルのジャマイカ、カザマンス

   a.ミュージシャンの若者たちとイスラーム学者

 トゥーバのようなイスラームを基盤とした街とは違い、南部カザマンスの、特に海岸沿いの街はまさしくリゾート地という印象だった。実際に観光客が家族連れで来るような場所でもあった。降水量が多く、海も近く、家々にマンゴーやバナナ、オレンジの木がある風景は「南国」そのものだった。

 カザマンスで出会ったミュージシャンの一言目は「セネガルのジャマイカにようこそ」だった。観光地らしく自覚的に南国的な雰囲気を演出している場面もあったのだろう。夜にはそれぞれのバーやクラブで、パーカッショニストや、レゲエバンドが演奏を披露する。友人のCと共に私も彼らにパーカッションを習い、現地のミュージシャンとの交流が深まった。

 アルコールも普通に販売され、大麻を吸う若者たちもたくさんいるような世俗的な(もしくはアニミズム的な人形もよく見かけた)雰囲気のこのカザマンスでも、イスラームの浸透を感じることがあった。滞在していた場所と、ライブ演奏が行われる街中は少し離れていたため、30分以上歩いて移動しなければならなかった。街灯もない夜道を若いミュージシャンたちが、歌いながら歩く。

 「ジェレジェフ マン バンバー(感謝します バンバに)」

 歌の内容はアフマド・バンバ(セリン・トゥーバ)というカリスマ的なイスラーム学者への尊敬と感謝を表すものだった。ダカールにいた時から、車、壁、首飾り、いたるところに様々なイスラーム学者たちの写真が掲げられ、また描かれていることに気づいていた。中でも最もよく目にするのが白いターバンを巻き、ローブを着るアフマド・バンバのものだった。そして他の指導者の写真の多くはアフマド・バンバの子孫のものであると聞いた。カザマンスの若者たちも家の壁にアフマド・バンバの肖像画を描き、首に下げる。

 アフマド・バンバは別名セリン・トゥーバと呼ばれており「トゥーバの師」を意味するらしい。百年ほど前に活躍したその指導者がイスラーム信仰のためにつくった街がトゥーバだという。トゥーバでは音楽が禁止されているにもかかわらず、ミュージシャンである彼らもまたそのイスラーム学者を尊敬しているのが不思議だった。

 

b. 犠牲祭

 イスラーム学者への尊敬とともに、カザマンスでのイスラームのあり方を実感したのが、現地ではタバスキと呼ばれる「犠牲祭(イード・アル・アドハー)」への参加だった。のちにイスラームの二大祝祭の一つだと知るが、この時は偶然の参加だった。

 いつもクラブで一緒に踊っていた現地の友人がこの日はムスリム服で正装し、親戚一同朝からモスクで礼拝をしている。礼拝後は家族で一頭の羊を捌く。小さな子どもたちも肉を押さえるなど、解体の手伝いをする。

 一頭の羊が目の前で肉になっていくのは、もしかすると以前であればかわいそうだとか、グロテスクなものに見えたかもしれない。しかしすでに、日本で普段私たちが見ようともしない食肉のプロセスを共有することの重要性を実感していたので、この犠牲祭のあり方には感銘を受けた。一人ではなかなかできない屠殺の経験や技術が、ごく自然に家族の間で共有され受け継がれていく。

 また、切り分けられた肉は私たちのようなゲストや家族以外にも貧しい人にも分け与えられるという。ダカールから感じていた食べ物の共有もまた、この犠牲祭に象徴されるような、イスラームに根ざしたものなのだと気づいた。

 慣れない環境での滞在は時にとても疲れるものだったけれど、思った以上に得るものが多く、飛行機の便を変更してもらい、予定よりも二週間長い一ヶ月半の滞在となった。日本では考えられないようなことが次々と起こった日々だった。帰りの便では何か現実ではないところにいたような気さえした。

 

2-5. 茨城県・兵庫県での農業研修(二〇〇九〜二〇一〇年)

 旅行から日本に戻った私は、セネガルで感じた信仰や音楽、文化のあり方に興味を持ち、青年海外協力隊への応募を考えた。大学院へ進学するという選択肢もあったが、協力隊のほうが共同生活や労働を通して貢献しつつ、より実践的に学ぶことができるのではないかと思った。

 応募に先立って、まずは茨城県と兵庫県で農業研修を受けつつ、農業関係のアルバイトをした。兵庫県では学生時代からお世話になっていた農家さんのところで、茨城県では協力隊や国際協力NGO勤務の経験を持つ有機農家さんのところで、住み込みの研修だった。

 山あいでの暮らしは、都会では決して感じることのない生命の循環を感じる。早朝に鳴く鳥の声、見たこともないような多様で不思議な色や形の昆虫たち、鶏・牛糞や落ち葉、稲わらなどでつくる堆肥、家畜とのやりとり。

 茨城県での研修中は野菜栽培に加え、鶏の飼育も経験した。餌をやる中で特に印象的だったのはある一羽のオスの鶏だった。足の後ろの部分に長い鉤爪があったその雄鶏は他の鶏を守るという意識が強く、餌をやりに行くたびに攻撃された。鶏とはいえ勢いをつけて飛びかかられると怖く、かなり痛い。

 ある日、そのオスも歳をとったので、捌いて肉にすることになった。いつもは荒々しいその鶏もこの時はなぜかすんなりと捕まった。そうかと思えば、と殺する段階になると暴れ出し、逃げられそうになるのを慌てて捕まえた。鶏とはいえ、思い入れのある動物を捌くのは流石に辛かった。いつもより丁寧に解体して食べた。

 この頃、食や農業に関する本を読んでいたが、ある本の中で中沢新一さんが「家畜を飼いだした時点で食肉はカニバリズム的性格を帯びるようになった」というようなこと言っていた。名前をつけていなくても、毎日のように接していると家族のようなものになると実感していたので、この考えはすんなり納得できた。

 このような肉食にまつわるものだけではなく、野菜栽培のプロセスにもある種の暴力を感じることがあった。有機農業では、化学農薬を使用しない。そのため農薬を使用する農業以上に、虫の害に悩まされることになる。そこで、唐辛子やハーブを使った自然農薬など色々と試行錯誤してみたが、やがて、手でとるのが一番手っ取り早いことに気づいた。農薬を使わない農業では、人力での駆除が食害への最も効率的な対策の一つとなる。例えばダイコンの苗についた「ダイコンハムシ」をピンセットで延々潰していく、青虫やテントウムシダマシを手や足で潰す。そんな作業が日課となった。

 最初は心苦しかったが、やがて慣れていった。やらなければこちらがやられる、という状況ではいとも簡単に暴力をふるうことができる。ダイコンハムシは大根の苗に卵を産みにくる。そこで生まれた幼虫が苗を噛み切るため、大根が育たない。駆除しなければ、大損害になってしまう。卵を産みに来るダイコンハムシは苗で交尾をする。彼らは単に、生の営みを行なっているだけなのに、そこに突然襲いかかるピンセット。これは私がやるべきことなのだという信念で、淡々と殺していく。まるで戦争じゃないか。俯瞰的な視点から虫たちを見つけて出そうとする自分の目線を、空爆の飛行士に重ね合わせる。

 日常的に多くの命を奪う一方で、ふと根本的で単純な事実に気づいた。現代の高度なテクノロジーで野菜の品種を改良することはできても、私たちは野菜のタネを、一から作り出すことはできない。私が追い払い、潰す多様な虫たちの美しいデザインをクローンとしてコピーすることはできても、命そのものを作ることはできない。人間の技術がどれだけ発達したといっても、今日の生態系を作ることなど到底できるはずがないという当然のこと。なぜ今まで気づかずに、気にもしていなかったのだろうかと我ながら驚いた。

 茨城県と兵庫県、合計1年半の及ぶ農業研修やアルバイトで得たのは、農業の知識や経験とともに、この生の根本的な暴力性と、近代科学の不可能性への実感だった。

 

3.マリ-日本-マリ:ポスト3・11へ(二〇一一年~

1.協力隊でマリへ

(1)マリへの赴任

 茨城県と兵庫県での農業研修を経て、無事、青年海外協力隊の試験に合格することができた。赴任はセネガルの隣のマリに決まった。試験に合格した隊員候補生は赴任に先立ち、二ヶ月間合宿形式の研修を受ける。この研修は赴任国の語学学習を中心としたものだが、異文化理解や健康面など様々な講義もあった。宗教の概要に関する講義でユダヤ教、キリスト教、イスラームは一神教として連続したものであり、同じ神を信仰しているという最も基本的なことを初めてきちんと理解した気がする。

  隊員にも色々な人がいて、当然ボランティア精神溢れる人もたくさんいたが、自分としては人助けに行くというよりは学びに行くという気持ちが強かった。学んだ分と貢献できた分が同じぐらいプラスマイナスゼロぐらいになればベストだと思っていた。

 そして研修を終え二〇一一年一月、念願のマリの農村へ赴任した。同期の隊員達と、フランスで一泊したのちマリに向かう。到着した首都のバマコは隣国のセネガルの首都に比べると緑も多くゆったりした雰囲気だった。マリはセネガルと同じく9割以上がムスリムであるとされるが、マリでは「アッサラーム アライクム」と言う挨拶はそれほど日常的ではなかった。しかし、日常のいたるところで「アッラー」という言葉に出会う。 

 例えば高齢の方の場合、挨拶はとても長く、途中からは祈りの文言となる。「おはよう。良い夜だったか?元気か?家族は元気か?子供達は元気か?問題はないか?アッラーのおかげで良い1日になりますように。アッラーのおかげで健康に過ごせますように。アッラーのおかげで家族が元気でありますように・・・」。このような言葉が延々と続いていく。挨拶をされた人は「アーミーン(アーメン)。アッラーのご加護がありますように」と返す。

 また、どんなに小さな村でもキリスト教などの村でない限り、モスクがあり一日五回の礼拝への呼びかけである「アザーン」がスピーカーから大音量で流れる。一番早いアザーンはまだ辺りが暗い夜明け前に鳴り響くので、よく起こされた。また、村での待ち合わせは「昼のお祈りの後で」というのが普通だった。礼拝が一日の予定やリズムの基盤となる。 

 日常の挨拶以外にも、こどもが生まれた、買い物をした、風邪をひいた、隣町に行く様々な場面でアッラーへの祈りが日常の中に織り込まれる。車やバスに乗り込む際には修行中の子どもたちが、歌うように安全を祈り、人々は小銭を施す。トマト缶を手にうろつく子どもたちの姿は、写真や映像では「ストリートチルドレン」そのものだった。彼らの生活の実態はわからなかったけれど、一心に祈る彼らの声に感動することもしばしばあり、自分も小銭を施した。

 ここでも食事はセネガルと同様「共食」が基本だった。家だけではなく食堂に入った時ですら、見ず知らずの人が「一緒にどうぞ」と言いながらお皿をこちらに差し出す。ありがとう、と言いながら断るのが礼儀だと学んだが、すっかり挨拶となったそのやりとりの中に共食の規範が見て取れた。 

 9割以上がムスリムということは、当然ムスリム以外の方がマイノリティとなる。夜明け前のアザーンや挨拶のあり方など、日本では考えられない習慣に、場所が変われば常識なんていとも簡単に変わるものだと感心した。 

 また、マリでもセネガル同様子どもにアブドゥライやムハンマドなどムスリムの名前を付けるが、私もウスマンという名前をもらった。すでにユスフという名前があったが、ウスマンの方が響きが柔らかく、なんとなくしっくりきた。やがて現地の人だけではなく、隊員同士でもマリでの名前で呼び合うようになりウスマン、として自分を認識するようになって言った。

(2)3・11とアッラー 

 そんなマリで少しずつ活動を始めていた時のことだった。首都で活動する先輩隊員から携帯にショート・メッセージが来た。そこには「日本で大地震。大変なことになっているようです。」と記されていた。赴任したばかり、電気の通っていない村で、テレビもラジオもインターネットもない状態。一体何が起きているのか把握できなかった。

 週末に近くの街へ出た。食堂のテレビで津波や原子力発電所の映像が流れている。ここで初めてことの重大さを知った。食堂で隣の席にいたマリ人が「日本人か?」と話しかけてくる。「大変だな。見ただろう。科学ではアッラーにはかなわないんだよ」。と言われる。私にとって地震や津波は自然災害であり、不可抗力であると考えていたので、この大惨事を神と科学の対比として捉えていると言うのは意外だった。

 赴任していた村でもみんな情報を聞きつけて心配してくれる。Tsunamiはテレビを見た人なら視覚的に理解でき、説明も可能だった。ただ、原発事故については説明するのが難しい。放射能はフランス語ではradioactivitéと説明することができる。しかし村でフランス語を話す人は多くない。バンバラ語には、「放射能」や「放射性物質」に当たる語彙がなかった。ウィルスや病原菌を意味する   「バナキセ(Bana kise/病気の種)」と訳した。ある言語には名前すら存在すらしないものに、私たちの日常は依存している。マリという外部から日本社会を見た時、その異常さが際立って見えた。

 他方で、インドネシアでは原発をハラーム(禁忌)であるとするファトワ(イスラーム法学的見解)がすでに二〇〇七年に出ていたことを知った。国際条約や法では禁じることのできない原発のような存在に対してイスラームは、経済的な合理性を超えた神の視点から基準を示すことができる。このような基準こそ私たちにとっても必要なものなのではないかと思った。

 マリの農村でも、そんなイスラームを基盤としながら、いつ何が起きるかわからないほど厳しい環境を生き抜いている。外へ出るだけでクラクラするような暑さ。晴れていたと思えば突然豪雨になったり、ハルマッタンと呼ばれる砂嵐が巻き起こったりする。想像もつかないぐらい激しい自然環境の変化。計画も立てづらく、また病気や事故も多い。自分自身、原因不明の熱でうなされるなど、しばしば病院にかかっていた。

 すぐ前の家に住んでいた子どもを何日か見かけないと思ったら、マラリアで亡くなったと知らされたこともあった。ついこの間まで元気だったのに、とショックだった。日本よりも格段に不確実性の高い日常の中で交わされる「家族は元気か?アッラーのご加護がありますように」という挨拶は、形だけのものではないのだと実感した。

 

(3) 犠牲祭、ラマダン月 

 セネガルではお客さんだった犠牲祭にも、ここでは自分も市場で羊を一頭購入し、と殺・解体して振る舞うなど主体的に参加することができた。日本では鶏より大きいものを捌くのは、法的にも金銭的にも環境的にも難しかったが、ここでは当たり前に、しかも偏見もなく“良いこと”として経験を積むことができるのが嬉しかった。しかし、ただでさえ暑さで体力が奪われるため、ラマダン月に断食をしようとは到底思えなかった。一方、マリの人たちの中には断食中は農作業をしながら唾も飲まないようにしている人たちもいて、彼らの信仰の強さの表れのように思えて感心した。

 上司として面倒を見てくれていた現地の公務員Dさんも一体いつ休んでいるのだろうというぐらい、バイクで村々を巡ったり、会議に出たり、いつも忙しくしていた。インドネシアからの留学生Aさんと同じように、真面目な彼らの背後にはイスラームへの信仰があるのだろうと感じた。

 とはいえこの頃はまだ、例えるならお正月やお盆のような現地の文化的な行事として犠牲祭やラマダン明けのお祭りに参加しているに過ぎなかった。ウスマンという名前にもすっかり馴染んでいたものの、まさか自分が改宗することになるとは思っても見なかった。村では入手しにくいビールなどの代わりに、蜂蜜からお酒を作るほどアルコールは好きだったし、豚肉を食べられる中華料理屋に行くことは首都へ行く楽しみの一つだったというように相変わらず世俗的な生活を送っていた。先輩隊員さんの誕生日に「イスラム教は嫌いじゃないの♪だけどもお酒が飲みづらい〜 時には戒律忘れて 楽しく一杯やりませんか〜?♫」という曲を作り録音してプレゼントしたが、半分ぐらいは自分自身の思いを重ねていたように思う。今思うとふざけた内容だが、その時は日本語の歌詞で誰か他の人に聞かせる訳でもないし、と気軽な気持ちで作っていた。

  

 

(4)先生とジン

 

 現地の人たちの実践としてはイスラームよりも、同じ村に住んでいた先生と呼ばれる人の、占いや音楽と踊りを通した治療に興味を覚えていた。先生のところでは毎週木曜日の夜に音楽が演奏され、人々が踊る。最初ゆっくりと始まるパーカッションのリズムもやがて激しさを増していき、音楽とともに人々の踊りも激しさを増す。マイクを通した輪唱のような歌が大音量で鳴り響く。やがてトランス状態に入った人たちが呻きながら倒れる。現地のバンバラ語で「ジネ」、アラビア語で「ジン」という目に見えない存在が降りてくるのだという。いかにも「アフリカ的」だと思った。

 人々がトランスしていく姿に最初は驚いたが、自分も経験したいと思い、一度踊ってみたことがあった。激しいリズムに身をまかせ、一心に踊ると眼前に光が広がってくる。普通のダンスミュージックで踊るのを何倍にも強烈にしたような感覚だった。いよいよトランス状態に入りかけたと思ったその時「危ない、明日から仕事ができなくなるよ!」と止められた。もう少し続けて見たい気もしたが、怖くもあった。イスラームとジンのようなアニミズム的な実践が並存しているのが面白いと思った。

 

(5)マリから見た日本・紛争・帰国

 自転車で村々を巡り野菜栽培の活動を続けながら、途中からはインターネットを導入し、時々日本の様子を見ていた。汚染された瓦礫や水の行方、廃炉にかかる予算、海や山、畑や田んぼなどの生態系への影響、人体への被曝の状況、途方もない時間が必要な放射性物質の管理。繰り返される「直ちに影響はありません」というフレーズ。ではいつ、どこで、どのような影響があるのか?様々な不確実性が明らかになるにつれ、脱原発の市民運動が盛り上がる一方で、政府は原発の再稼働を進めるという。国土の一部を失いながら、なおも原発に依存し続けざるを得ないという非合理的な状況に、この先どうなるのか、不安に思っていた。

 そんな生活を1年間送り、二〇一二年になった頃状況が変わる。リビアのカダフィ政権崩壊の影響で、マリ北部の状況が悪化しているという。リビアで雇われていたマリ人の傭兵が帰国し、独立紛争に加わったためらしい。独立勢力はマリ北部の主要都市を制圧すると、「Azawad」国として独立を宣言した。マリ北部は首都のある南部とは見るからに民族や言語も違い、長年独立を求めていた。そのまま独立すればそれはそれで丸く収まるのではないかと思えたが、当然マリ政府は独立を認めず、混乱する一方だった。

 やがてその混乱に乗じて、アルカイダ系勢力が諸外国から流入し、一層対立が激化してしまう。独立勢力とイスラーム主義勢力は徐々に南下し、首都ではマリ政府の対応に不満を覚えた軍部のクーデターが起きた。二〇一二年四月、自分たち協力隊員を含めた多くの外国人は退去せざるを得なくなった。本来であれば2年間の赴任予定が残念ながら1年3ヶ月で帰国となってしまった。その後、日本でしばらく待機していたが、結局状況は改善されず、再渡航しないまま協力隊の任期を終えることになった。

 

2.お肉ワークショップ(二〇一二年〜)

 協力隊の任期終了後は、食肉用の家畜が日常にいる西アフリカの生活を再現するとともに、日本での食のあり方を振り返る試みとして、大阪を中心に、生きた鶏を捌くお肉ワークショップと呼ぶ活動を始めた。すでにアフリカ渡航前から内輪では同様の活動を行なっていたが、自分の食の過程を知ることは3.11を経てますます重要になっているように思えた。そこでイベントスペースなどを利用して一般の参加者を募り、より公共の場でこの活動を始めた。

 ちょうど「ちはるの森」というブログの著者、畠山ちはるさんが同様の活動を記しインターネット上で注目を集めていた頃だった。「普通の若者」がカモや鶏、ウサギなどを解体し、食べた感想をブログにアップしていく。他にも、食肉や狩猟に関する漫画も次々と出版されていく。3・11以降、食を通じて自己の生を根本的に考え直すということへは、以前にも増して関心が高まり、一つのムーブメントになっていると感じた。

 「お肉ワークショップ」を何度か実施した後で、京都で開催されたソーシャルファウンディングと呼ばれる企画に応募しプレゼンテーションを行なったところ、見事一位に選ばれ、活動資金を得られた。また、活動に関するインタビューさせてほしいとの連絡を受け、インタビュー内容や参加者の感想が卒業論文の研究対象となるということもあった。小規模ながら、社会的にも意義を感じている人が増えていることが嬉しかった。

 通算で20回以上のワークショップを開催した。お肉ワークショップは、鶏をと殺・解体した後、みんなで食卓を囲み、感想を言い合う。食や環境だけではなく、命について考える機会となり、いつも以上に自分自身の生や死について話し合うことができる。

 (誤読かもしれないけど)その頃少し読んだフランスの哲学者ジョルジュ・バタイユが、「供儀獣の死を見つめることは、自己の死を見ることである」というようなことを述べていたのも頷けた。捌かれた肉は死を介して、やがて死ぬべき私の一部となる。生き物を捌き食べることは、単なる食事ではなくて、自己の死の一部をあらかじめ見ることだと思った。

 色々な意味で死を意識するこのワークショップをする中で、次第に捌く前に祈りのような時間が生まれていったのも面白かった。それぞれが思い思いの方法で「いただきます」という気持ちを込めるための一分ほどの時間を設ける。そうすると、捌いた後の精神的な疲れが軽減されることを経験的に学んだ。私たちが肉を食べる以上間接的に毎日のように関わっている「命を奪う」行為は、見えていないだけでその過程では、宗教的なものと直結しているのだと実感した。 

 またある時、ワークショップ参加者の方がブログに感想を書いてくれた。そこでは「参加者同士で土葬がいいねと話し合っていた」ということが書かれていた(注1)。私自身、有機農業という循環的な生のあり方を経験していたせいか、自己の死を思い浮かべた時に、土葬がいいと漠然と思っていた。福岡にいた頃には「どちらかといえば土葬がいいが日本では難しいらしい〜」という内容の歌を作り、人前で歌ったこともあったので、このブログの感想には共感した。

 ワークショップを続けていると、参加者の一人が自分も講師をしたいといってくれる人がいた。ちょうど高知や群馬など遠方からも依頼が入るようになっていた頃だったので、自分がいけない場合は代わりにいってもらうなど、とても助かったし、何より嬉しかった。

 畠山ちはるさんが著書を出版する際に自分のワークショップ情報を載せてくれたこともあった。それを見た、とある大学の学生さんから連絡があり、食肉に関する卒業論文の研究対象としてインタビューしたいという申し出があった。自分自身の考えを話すいい機会となったし、自分の活動が学術的に取り上げられるというのは感慨深いものがあった。


(注1)参加者の感想より「参加者の人とも色々な話をした。印象に残っているのは「土葬されたい〜〜」と言い合っていたこと。死んだ時に土に還ることが出来るっていいなぁと感じて、自然とそんな話をしていた。鶏さんの死を見て、自分の死についても感覚が自然なかたちで近づいて開かれているような気分だった。」 


3.再びマリへ:ジン(二〇一三年)

 ワークショップを続け、狩猟免許をとり、猟師さんたちについて山に入るなど、食肉に関する活動を続けていたものの、西アフリカ、マリの文化をやはりもう少し詳しく知りたいと思い、大学院で研究するための準備を始めた。

 テーマを絞るため、また、思わぬ帰国となった現地のその後の様子を知りたいと、再びマリを訪れた。この時点での研究テーマとしては、協力隊で滞在時に見かけた、ジンにまつわる実践を検討していた。この時の滞在では改めてこのジンについて聞き取りや、映像撮影をさせてもらった。

 久しぶりに赴任していた村に到着したのは日が暮れた夜のことだった。向かいの家で、数人が集まっていた。様子を見に行くと、その家の女性がジネに取り憑かれ呻いている。別の女性が、煙をかけて耳元でささやくことでジネ追い払おうとしている。ジネの憑依は「先生」のような専門家であれば人の悩みの解決や病気の治療に活かすことができる一方、その力で気が狂ってしまうこともあるらしい。

 その女性に後日話を聞くと、感情が高ぶった時にジンが降りてくるという。そういえば隊員時代にも隣人がよく大声で叫んでいた、と思い出した。単なる口喧嘩なのだと思っていたが、その隣人も聞いてみると「怒ったり悲しかったりする時にジンが降りてくる」と言う。音楽や踊りによるものだけでなく、日本だとヒステリーと呼ばれそうなものも、ここではジンの憑依と捉えられているのだと思い興味深かった。

 聞き取りの中で意外だったのが、協力隊時代の上司であり、敬虔なムスリムのDさんの発言だった。「ジンは存在する!それぞれの人にそれぞれのジンがいる、あなたにも私にも」と彼は熱弁する。Dさんの発言が意外だったのは、この時点では自分自身ジンをアニミズム的な存在として捉えており、そのジンをムスリムのDさんが完全に肯定している、という理由からだった。

 キューバへ数年間の留学経験がありNGOで働くEさんもまた「ジンはどこにでもいます。」とその存在を認める。「ただほとんどの人には見えない。誰が見ることができるのかは、神が決定するのです。」「ジンの存在はクルアーンに書かれている。」と言う。ここで初めてジンは単にアフリカ的な、民族的なものではなくイスラームの世界観の一部をなしているものだと気付いた。

 存在を肯定する一方でDさんは「イスラームは一神教です。神のみを信仰します。ジンの声を聞く『先生』の言う通りにすると、神とジンを同列に置くことになる」と言う。話を聞く中でジンが「存在する」と確信することと、音楽や歌を使って「信仰する」ことは別々のことなのだということを徐々に理解した。

 ただ、「先生」自身はウェブサイトや儀礼の中で「アッラーが治癒してくれますように」「アッラーが認めてくだされば・・・」といったフレーズをしばしば使っており、イスラームの実践として行っているようだった。敬虔なムスリムであるほど、「先生」の実践には批判的だったが、実際には毎週多くの人が「先生」を訪れ治療を受けていた。中にはわざわざ隣国からきて治療のために滞在している人もいた。目に見えない存在をめぐって様々な解釈がなされるということに興味を持った。

 

4.大阪大学とトゥーバ:イスラーム思想と実践の解釈(二〇一四年四月~)

4−1.ジンと放射性物質(信仰と科学)

 マリの映像を編集しながら大学院を受験した。アフリカをフィールドとするわけではないけれど、現地の音楽を習得しながら研究をされていた先生の研究室に無事試験に合格し、大学院へ進学することになった。ただ、残念ながらマリは危険度の関係ですぐにはフィールドに渡航することができなかった。

 文献にあたる中で、実際にクルアーンを見てみると全114章の内の一つに「幽精章」があるほか、人間と同様に善も悪もなす存在として数十回に渡ってジンが描かれていた。イスラーム関連の本の中でも時折ジンに関する記述があった。

 その中にはスレイマーン(ソロモン王)がジンとコミュニケーションをとることができ、人間のために働かせたといったクルアーンの記述が紹介されていた。「先生」があれほど尊敬されていたのはこのスレイマーンと重ね合わせられていたのではないかと思った。改めてクルアーンの記述がマリの人々の世界観に直結しているのだと実感した。

 その頃何度かマリで撮影した映像をきっかけに対話する、という機会を大学内外で得た。妖霊や幽精と訳されるジンのような不可視の存在が日本ではどう捉えられているのか知りたかった。

 当初、今の日本の常識からはジンは、ファンタジーやアニミズム、狐憑きといった前近代的なものに映るかもしれないと思っていた。しかし、この対話を行う中で、もちろん非科学的だという人もいたけれど、学術的な場にいる人々でも先祖の霊や妖精的なものなど目に見えない存在を受け入れている人が多くいて驚いた。その頃沖縄に行く機会があったが、そこで買ったユタに関する本を読んでいると自分がマリで見聞きしたものとそっくりな部分が多かったのも興味深かった。イスラームは厳格な一神教というイメージを自分自身強く持っていたが、これらの対話や本を通して、地域や時代にかかわらず、いろいろな形で直感的に感じられてきた目に見えない存在のことも矛盾なく含むものなのだと思うようになった。

 ただ、大学外での市民講座中で話題提供をした際「桂さんはジンのことを信じている訳ではないですよね?」と当然のように聞かれた時は、とまどった。マリのような9割がムスリムでジンの存在を肯定するような場所ではともかく、日本で、ジンはここにも存在します!ということは大学院生という立場上、ダメなのではないかと思い、はっきりと答えることができなかった。(今同じことを聞かれたら存在はする、けれどそれがどのようなものなのかは自分にはまだわからない、と答えると思う。)

 こうして何度か対話を繰り返す中で、不可視の存在は案外市民権を得ているのだという感じる一方で、逆に「科学的」だと思われているものも実際には信仰に近い部分もあるのだということに気づくようにもなった。

 具体的にはジンと同軸、不可視の存在である放射性物質をめぐる3.11以降の人々の反応だった。レントゲンや放射線治療、原子力発電所をめぐる言説とマリでの経験や本で読んだ内容とを照らし合わせると、ジンと放射性物質の共通点がとても多いことに驚いた。例えば次のような共通した特徴が見て取れた。

 不可視であるが確かに存在するとされる/自然の中に既に存在するが、特定の仕方で人為的に利用することもある/人を治療もすれば命の危険ももたらす/身体、心理共に内面深くまで影響を及ぼす/近づいてはいけない(住むことのできない)特定の場所がある(注2)/ある人々はそれらを見ることができる/それがどのような存在なのか、どのように対処すべきか、最終的には専門家(先生)の言うことを「信じる」しかない/「女性」がより敏感にそれらの存在を感じ取る傾向があるように思われる、など(注3

 放射性物質に限らず、細菌などもまた、このような不可視な存在の一つだと後に実感したこともあった。二〇一五年に再度セネガルに渡航した際、日本からの観光客を案内した。ある時、現地の友人が彼女らにコーヒーを淹れると申し出た。あまり綺麗ではない小屋の中でのことだったので、差し出されたコップに不安を覚えたようでその中の一人が「除菌シート」を鞄から取り出し、コップを拭った。その頃すでに二ヶ月ほど現地に滞在していた私には見えなくなっていた細菌・病原菌の存在の可能性を、日本から来たばかりの彼女らは見て取ったようだった。現地ではジンに対する護符を身につける習慣があるが、常に携帯される「除菌シート」は彼女らにとっての護符であるように感じた。

 これらの経験を通して一見非科学的に見えるジンも、一見科学的に見える放射性物質も、その存在や善悪をめぐってはどちらも共に“信仰”的なものにならざるを得ないのだと思った。


(注2)かつて農業研修を受けた茨城県北部は、田畑が汚染される、風評で売り上げが落ちるなど原発事故の影響を直接受けていた。知人の中には子育てのことなどを考慮に入れ、何年も土作りをした土地を手放し、移住した人もいた。 

(注3)肢体の不自由なこどもが生まれる原因とされる、という点も共通していた。



2. 思想としてのイスラームへの興味(二〇一四年四月ごろ~)

 

 イスラームにおけるジンのような不可視の存在や、日常的な諸規定の根拠は間違いなくクルアーンにある。ではそのクルアーンの記述を信じるというのは一体どう言うことなのか、気になっていた。

 インターネットなどで調べるうちに小杉泰さんや中田考さんなど日本人ムスリムかつイスラーム研究者である人たちの存在を知り、少しずつ書籍やブログなどを読み進めた。

 ある時、ハラール和牛関連の講演会で、小杉さんが話されることを知り参加した。一般向けの講演だけあって話の内容はわかりやすく、いくつも納得する部分があった。

 例えば、「イスラームは合理主義や科学が高度に発展した二十世紀を生き延びた。これからも存続し続けるだろう/ムスリムは世界中でみんな同じところに向かい、ほとんど同じ方法で礼拝する。これほど多様な文化を持つ世界で同じことをする、というのがすごい/ムスリムは自由か幸福かでいうと幸福をとる」といった内容の言葉が印象的だった。

 マリで聞いた「科学ではアッラーにはかなわない」という言葉。インドネシアのAさんやセネガルのミュージシャンたち、マリの人々、日本の小杉さんなど、“一つの”イスラームを基盤に生きる多様な人々。厳しい自然環境の元、食べ物や資源を私有化するのではなく共有し、共に生活することが重視される西アフリカのイスラーム社会。それまでの経験と照らし合わせて、小杉さんの言葉はとてもしっくりきた。

 小杉さんの他にも、論理的にイスラームを解説する、中田考さんの書籍やブログからも多くを学んだ。特に共感したのがムスリムは法人や国家、人ではなく「神にのみ服従する」という考え方だった。イラクやアフガン戦争への国家的な支持、政府や電力会社の決定に従わざるを得ない人々、大学卒業後に企業へ就職した時の自分の感覚の変化。法人や国家を絶対視してしまうことの危うさや暴力性の実感を経て、イスラームの“神個人”という考え方はとても魅力的だった。

 また通常「アッラーの他に神はなし」と訳されるシャハーダ(信仰告白)の第一文「ライラハ・イララー」は否定から始まっているということを知った。語順としては「神はなし、アッラー以外には」となるらしい。イスラームの根本である神ですらその存在はまず相対化されているという。しかし、世界は存在するし、存在する物にはその始まりがあるということを、私たちは経験的に理解している。

 感じられる世界の一切の相対化と、経験による存在の肯定という往還は、割と好きだった般若心経の「色即是空、空即是色」と通じるところがあると感じた。ムスリムも法や規範をあらかじめ絶対視している訳ではないということは、これまで様々な人々と出会う中で分かっていたつもりだったが、中田さんの文章に触れることで、改めてそのことに気付かされた。

 また、自分自身当たり前のように内面化していた「自由」という概念がカント以降の人間観でしかないという中田さんの指摘も、小杉さんの「イスラームは自由よりも幸福をとる」という言葉と相まって自分の常識を揺るがすものだった。

 中田さんはイスラームの人間観を理解するにはカント以降ではなくアリストテレスからやり直さなければならないという。哲学的なレベルでイスラームについて説明してくれていてその多くは自分にとっては納得のいくものだった。

 さらに、中世のイスラームは“翻訳の時代”と呼ばれ、当時現存したプラトンやアリストテレスなどの古代ギリシャの哲学の多くをアラビア語に翻訳し吸収していたのだということも知った。むしろこの“翻訳の時代”のおかげで、中世以降の西洋も古代ギリシャ哲学を再び知ることができた、という事実から「西洋」「イスラーム」という表面的な二項対立では覆い隠されてしまう両者のつながりや混ざり合いが見えてきた。

 中田さんの著作で唐突に日本人ラッパーのTwigyの名前が出てきたのには流石にびっくりした。自分自身高校生の頃すごく好きなラッパーだった。中田さんの見識の広さを通してイスラーム自体が多様な文化や学問の元となる、奥深い思想なのだということを理解していった。

 この頃には自分自身も日常の中で酒や豚をできるだけ回避し、スマホにアプリを入れ、礼拝時間の通知を設定するといったことを自然と行うようになっていた。ただ、この時点ではどちらかというと次回の渡航に向けての準備という意識が強く、自分自身が改宗するということまでは真剣に考えていなかったように思う。

 

4-2.一者への回帰:プロティノス、ルネ・ゲノン

 思想としてのイスラームを理解するため、イスラーム哲学や神学の概説書を読むと共に、ギリシャ哲学に関する講義を受け、プラトン、アリストテレス、プロティノスなどの著作に触れた。精霊や霊魂、神の存在が当然のものとして出てくる当時のギリシャの世界観が、現代のアフリカで感じたものと重なり、とても新鮮だった。

 ギリシャ哲学の中でも印象的だったのが、形而上学的な“一者”へと回帰を説くプロティノスの考え方だった。今日であれば即座に信仰と捉えられそうな、この一者への回帰が当時は哲学として受け入れられていたのが面白いと思った。

 中世イスラーム世界では、そのようなプロティノスやアリストテレスなどのギリシャ哲学の翻訳、吸収を通してイスラーム哲学者たちが活躍する一方で、人間理性と啓示の矛盾が生じ、信仰を揺るがしかねない状況があったようだった。そのため哲学と神学の間に激しい論争があったと知り興味を持った。

 講義の課題として出されたレポートの題材に神学者アル・ガザーリーの哲学批判と、それに対する哲学者イブン・ルシュドの哲学擁護という中世の論争を選んだ。そこでなされていた、ギリシャ哲学の概念を用いた議論の緻密さに驚いた。知れば知るほどイスラームの論理的な側面はなぜこんなにも無視されているのか不思議だった。

 レポートではそこで議論されていた“神の行為”“現象界の行為”を参考に、イスラームにおける人間の行為について考察した。人が何かを作ったり、食べたりするのは、それが不足していたり必要とするからだが、礼拝や断食をするのは不足や必要ではなく、究極的にはクルアーンに書かれているからだろう。そのクルアーンという啓示は、この世界の創造という神の行為の延長線上に位置付けられる。語弊を恐れずに言えば啓示に従うとき、人間の行為もまた“神の行為”と捉えられるのではないか。そのように結論づけた。

 一四〇〇年前の啓示に従うことは “狂信的”とさえ言われることもあるが、この中世イスラーム世界の議論を見ていると、歴史的にすでに啓示に関して人間理性を尽くして議論がなされていたことがわかった。そこでは人間理性を重視しつつも限界があることを認め、人間理性に依存してしまうことの危険性が述べられていた。

 9.11や3.11を契機に人間理性やそれに基づく科学への過度の依存が、結局戦争や原発事故などにつながってしまったことを実感していたので、自分自身この中世イスラーム世界の議論はとても納得のいくものだった。 

 イブン・ルシュドの哲学とアル・ガザーリーの神学やスーフィズムと、立場やアプローチは違えども、両者の姿勢から共通して感じたのはプロティノスに通じるような人間理性を超越する一者を知り、一者へ回帰しようとする強い意志だった。

 やがて、プロティノスについての呟きをSNSに投稿した際、ルネ・ゲノンを紹介するコメントを頂いたことがきっかけとなって、このような一者への意志が現代のフランス思想にも引き継がれているということを知った。

 ルネ・ゲノンは、フランス人の形而上学者でありながら改宗したムスリムであるらしかった。ゲノンの考えではイスラームに限らず、キリスト教、ヒンドゥー教など形而上学的な一者と繋がることが学術的にも社会的にも正統であり、形而上学的なものを排除する西洋近代のあり方のほうが誤りとなる。 

 百年前の著作とはいえ、「ライシテ(世俗主義)」を国是とするフランスでこれほどまでに明確に宗教的なものを肯定している思想家がいることに驚いた。しかも、彼の思想はエリアーデやシモーヌ・ヴェイユなどの著名な思想家にも影響を与えているらしかった。

 この一者への上昇に関連してゲノンの思想で重要だと思えたのが、彼のコンフリクト観だった。ゲノンのコンフリクト観では一見別々のものが対立しているように見えても、より高次の次元から見ると同じものの両面となる。さらに、重要なのは概念的な両者のバランスをとることではなく、権利が侵害されているという現実を見ることだという。

 9・11以降ずっと感じていた報道におけるイスラームと、西洋近代的なもののアンバランスさに対する違和感もこのゲノンの観点からは、当然のものだったのだと思った。暴力が発生した時にその暴力自体を断罪するだけではコンフリクトは解決せず、その背後にある非対称性をきちんと見なければいけないと改めて感じた。

 

4-3.報道と実感の乖離

 これらのイスラームの思想的側面を学びその深遠さに感銘を受ける一方で、現実的にはイスラーム国の誕生、シャルリー・エブド社の襲撃事件、日本人人質事件などが続きイスラームに関するネガティヴな報道が増えていく。自己の経験からくるイメージと、語られるイスラームの乖離にさらにもどかしさがつのった。

 例えばシャルリー・エブド事件について、二〇〇五年のデンマーク新聞社による預言者の風刺画掲載以降のデモや言説、ゲノンのコンフリクト観をふまえると「風刺画を描く(預言者を侮辱する)」権利と「風刺画を描かない(預言者を侮辱されない)」権利のアンバランスさ、非対称性こそ是正されるべきものであるはずだと思えた。しかし、実際には襲撃という暴力のみが切り取られ”正義の西洋“に対する”野蛮で狂信的なイスラーム主義者の犯行“といった一方的なものとして単純化されて報道・理解されてしまう。9・11後の状況と同じく自分自身の実感と報道の乖離を感じた。

 シャルリー・エブド社の風刺画に先立つ二〇〇五年のデンマーク新聞社による風刺画事件以降、数多く出版された論考も基本的に西洋の観点からしか風刺画の問題を論じておらず、イスラーム学の観点から学術的な見解を述べるのは日本語で私が見た限りでは中田さんだけだった。しかし中田さんもやがてイスラーム国関係者として捜査・報道されてしまう。サラフィー・ジハーディストと呼ばれる人々とのコンフリクトを回避するための、もっとも重要な回路が閉じられてしまったと思った。

 このようなイスラーム主義への一方的な視点に基づいた報道は、マリ北部に関しても同様だった。例えばフランスの国営放送France2が製作した二十数分間の番組。銃痕のあるバーの壁が映し出されるところから始まり、イスラーム主義者の証言や、現地の証言などを織り交ぜ、一見中立的な立場をとっているようにも見える。しかし、最終的には都会の若い女性たちが、クラブで踊るという自由を謳歌する場面で締めくくられる。

 クラブで踊ることがあらかじめ正義であり、イスラーム主義勢力や独立勢力といった「権威」への正当な抵抗であるかのような、フランス的価値を前提とする報道に対して違和感を越して怒りのようなものを感じた。

 すでにセネガルのトゥーバで「音楽を禁じること」が信仰にとって大切なものであるということを実感しており、また、イスラームの合理性は西洋のそれとは異なると思っていたため、イスラーム内部の論理や感覚を無視して即座に「悪」というラベリングをすることこそが、暴力を招く一因となるのではないかと思った。

 その後イスラーム国で日本人の人質が殺されてしまったことを受け、残念ながら日本国内でもモスクへの嫌がらせや脅迫なども起きてしまう。欧米社会で現実となっている、憎悪と暴力の悪循環、排外主義の席巻が日本でも起こりうるのではないかという危機感が強まった。

 日本は西洋のように十字軍などのイスラームとの軋轢という歴史は共有していない。より客観的でニュートラルな視点から、イスラームと共生を考えるモデルケースとなり、混乱に陥るイスラームと西洋近代の媒介になることもできるはずだという希望的観測があった。しかしブッシュ大統領を支持した小泉首相と同じく、アメリカやイスラエルを支援する安倍首相を見ていると、そのような役割を担うつもりも気概もないのだということを否応なく知らされ、がっかりした。

 さらに日本の学術や公共的な言説すら、西洋近代的価値や規範を内面化してしまっているので、このままでは西洋の後を追うように日本もイスラームと対立という悪循環に陥っていく一方ではないかと思えた。 

 

4-4.供犠と暴力とお肉

 このような問題意識を持ちながら色々と文献にあたる中、ルネ・ジラールというフランスの哲学者の著作に出会った。部分的に読んだジラールの著作と彼の主張に関する論文から、ジラールが共同体内の暴力の発生を欲望との関係で捉えていることがわかってきた。同じ対象に対する欲望を、複数の主体が互いに模倣し合うことが暴力発生の契機となる。グローバリゼーションの進行で地球が一つの共同体となる現状で起きているテロや空爆という暴力も、このジラールのいう欲望の相互模倣が原因なのではないかと思えた。

 学術であれ宗教であれ、自己の正しさを公的に主張しようとする欲望自体が暴力の原因となりえる。風刺画や、音楽と共に踊ることが自由として学術的に肯定されるから非暴力である、と単純にいうことはできないと感じた。同時に自分がフランスの報道に対して抱いた怒りも正当なものだと思えた。

 しかし、現実のフランスの状況を見ると自分たちが純粋に被害者であるかのように人々がデモに繰り出し、日本でもフランスをサポートするプロフィール写真の加工が流行していく。他者の分かりやすい暴力を安易に批判することですら自己を肯定したいという欲望であり、さらに悪循環を招くように思えたが、かといってフランスの動向を批判するとイスラーム国の肯定と見られかねない。実際にイスラームに関する投稿をSNSにしていると、実際に、友人に会った時「最近イスラーム寄りの発言をしてるみたいだけど大丈夫か?」と言われてしまった。意図せず単純化して理解されてしまう状況にもどかしい思いだけが募っていく。

 ジラールが論じた欲望の相互模倣による暴力の発生を回避する方法は「身代わりの山羊」の殺害だった。このスケープゴートの殺害で共同体の崩壊を代替・回避することが人間にとっての供犠の始まりであるという。

 このジラールの供犠論を知って、自分が共感を覚えたイスラームの犠牲祭が共同体内の安定に寄与しうるものであるということ、それが二大祭事の一つとして具体的な実践として組み込まれていることの重要性を改めて実感した。

 穢れや差別という歴史的背景からか、お肉ワークショップが公共の場でなかなか行いづらいという日本の状況と比べて、むしろ公的に羊の屠殺が推奨されているイスラームの公共圏はある意味で「進んだ」もののように思えた。ジラールは動物供犠の復活ではなくカトリックへの回帰を説いているようだったが、自分にとってはイスラームのあり方の方がしっくりきた。

 

5.「君はムスリムじゃないからね/Let me be a Muslim.

 「アッサラーム・アライクム」

 ある日、キャンパスで突然留学生に声をかけられた。「ムスリムですか?金曜日だからね、礼拝場所に行くのかもしれないと思って」という。彼らが礼拝を行う留学生会館への道端でのことだった。なぜ声をかけられたのかわからなかったけど、髭を伸ばしどことなくエスニックな服を着て、いかにもイスラームに興味がありそうだったのかもしれない。

 時々クルアーンは読むけれどムスリムではない、と答えると彼は「いつか一緒に礼拝できるように祈っているよ」と言って、連絡先を交換して別れた。

 後日、連絡をとり、色々とイスラームに関して質問をした。話をする中で西アフリカで犠牲祭を経験したこと、日本で食肉ワークショップをしていること、いつか羊を捌き日本でも犠牲祭をしたいということを伝えた。

 「そうやって興味を示してくれるのは嬉しいよ。でも問題が一つある。君はムスリムじゃないからね。君の捌いた肉を僕らは食べることができないんだ」。事実であり、自分でもそう思っていたとはいえ面と向かって「ムスリムではない」と言われたのは少しショックだった。自分自身、すでに数ヶ月間豚肉やアルコールを摂らずクルアーンを読み始めていたこともあって、どこかですでにムスリムなのかもしれないと思い始めていたのだろう。

 その時もうひとつ印象的だった言葉があった。その友人がコーヒーを奢ってくれるといいだした。日本人らしく(?)遠慮していると「Let me be a Muslim」という。何気ない一言で、そこまで意味を込めていなかったのかもしれない。それでもかたやイスラームに興味を持ちつつ改宗しない自分、かたや熱心なムスリムでありながらより良いムスリムであろうとする友人。その対比になんとも言えない気持ちになった。

 ではその後すぐにシャハーダ(信仰告白)を行なったかというとそうではなかった。「自分は改宗する気はないが、とてもいい宗教だと思う」ということを当時SNSで書いていたことを覚えている。まだ自分自身がムスリムとして信仰実践できるかどうか、イスラーム共同体の一員といえるかどうか確信を持てていなかったのだと思う。

 

5.セネガルへの再渡航(二〇一五年〜二〇一六年)

1.トゥーバへの再渡航に向けて

 マリから帰国して既に数年が経ち、フィールドワークの機会を伺っていたが、結局情勢が劇的に改善することはなかった。

 ジンの存在や対処、治療などにも相変わらず関心があったが、しかし、やはり西アフリカのイスラーム実践に関心があったので、かつて訪れたセネガルのトゥーバに渡航することに決めた。トゥーバでイスラームの諸規範がどのように捉えられ、実践されているのか、ということが気になっていた。特に、音楽の禁止について知りたかった。自分自身、イスラームに惹かれながらも音楽も好きだったため、どのような理由で音楽が禁止され、人々がどのようにそれを捉えているのかを聞いてみようと思った。

 シャルリー・エブド事件や、マリ北部の報道では、イスラーム主義者と呼ばれる人たちのとる暴力的な方法だけではなく、西洋近代的な視点から色々な義務や禁止を伴うシャリーアによる統治という、イスラームを基盤とする考え方自体が敵視されているように感じていた。イスラーム国や、マリ北部の人々とは違う平和的な方法でイスラームを基盤とし信仰を深めているように見えたトゥーバのあり方から、凝り固まった姿とは違うイスラーム像を知ることができるのではないかと考えた。

 渡航に先立ち、日本人ムスリムの友人に「何かあった時のためにシャハーダとクルアーンの開端章ぐらいはアラビア語で覚えていったほうがいいかもしれない」とアドバイスをもらった。

 実際にマリの報道でもバーが襲撃された際に、シャハーダを暗唱することができたので助かったという報道を見たことがあった。シャハーダに関しては基本的には「ライラハ・イララー」「ムハンマド・ラスルッラー」の二フレーズだけなので既に覚えていた。ただ、開端章は礼拝時に一日のうちに何度も暗唱するということは知っていたが、まだ覚えるには至っていなかった。この機会にアプリを使って、開端章を覚え始めた。朗唱を聞くたびに美しいクルアーンの響きを感じた。

 

5-2.イスラーム学者への尊敬と愛情

 セネガルではトゥーバを中心に三ヶ月弱滞在した。マリと同様、映像を撮りながら、イスラーム学者、バカロレア受験生、木工職人、市場の人々、フランス人改宗者など、色々な人に話を聞くことができた。

8年前に感じたイスラーム学者、シェイク・アフマド・バンバ(セリン・トゥーバ)への尊敬や愛情の理由も徐々にわかってきた。話を聞いた人たちが口を揃えて言うのは「セリン・トゥーバは決して武器を取らなかった。」ということと「代わりに詩や本を書き、信仰を貫くことが戦いだった」ということだった。

 植民地政府に対してはそれまでにも武力で抵抗した指導者たちもいたが、セリン・トゥーバはそのような武力によるジハードは行わず、代わりに自己が犠牲となり、八年間にわたる国外追放を受け入れたらしい。イスラーム世界にもこのような、非暴力による抵抗という考え方があったことに驚いた。

 彼らの尊敬の理由はわかったが、一つ気になることがあった。それは街中や車など、いたるところにセリン・トゥーバの肖像が掲げられていることだった。知り合ったイスラーム学者のKさんに「これは側から見ると偶像崇拝に見えるのではないか」と聞くと「なぜこのような偉大な人を愛さずにいられるのでしょうか。しかし決して崇拝はしません。崇拝するのは神のみです。それはイスラームでは明確なことです」という返答があった。自分なりに納得したし、やはり外部の視点からではわからないこともたくさんあると思った。

 

5-4.大ジハード/魂のジハード

 やがてイスラームの伝統では非暴力的に信仰に生きることが「大ジハード」であり、一般的に聖戦と訳される武力による戦いは「小ジハード」と呼ばれていることを知った。このような大ジハードのありかたはセネガルでは「ジハード・ナフス(魂のジハード)」と呼ばれ、自己の欲望との戦いとして、人々の暮らしに浸透しているようだった。

 出会った人の中には「僕の名前は〇〇。ジハーディストだ。セリン・トゥーバのいう意味でのね」とあえて名乗る若者さえいた。彼は「知識はカラシニコフより強いんだ。何よりクルアーンにカラシニコフは出てこないしね。」と笑いながらいう。知識を得て、信仰を深めるこという戦い方。他者を批判するのではなく、実践を通して自分自身のあり方をより良いものにしていこうとすること。報道などで見かける「ペンは剣よりも強し」という日本では胡散臭く思えたキャッチフレーズもここではその通りだと思えた。

 ジラールが言っていたように欲望の相互模倣が暴力の契機となるのなら、自分の欲望と戦うことは非暴力への道になるだろう。イスラームの伝統の中ですでにこのような大ジハードという理論化がなされていること、それがトゥーバで実践されていること、七年前そこに自分がなぜかたどり着いたということ。全てがここにつながっていたのだと思った。運命というのはこのようなことを言うのだろう。今まで自分が訳も分からず試行錯誤してきたことが、イスラームの伝統の中ではより具体的で包括的に実践されてきたのだと感じた。

 

5-5.音楽の禁止とカスィーダ

 一番気になっていたトゥーバでの音楽の禁止も、この大ジハードの観点から見るとすんなり理解できた。とはいえいろいろ気になったので、知り合ったイスラーム学者のKさんに「でも神について歌うラッパーもいますよね」などと質問していた。Kさんからは「悪いことだとは言えません。西洋の文脈ではいいでしょう。でも私たちには私たちのやり方があります。」という返答があった。「メロディはとても深いものです。アイデンティティや存在につながります」とも。

 「私たちのやり方」には二種類あるようだった。ライラハ・イララー(アッラーの他に神は無し)と繰り返す「ズィクル」と、預言者と神を讃える「カスィーダ」と呼ばれる詩だった。7年前初めてトゥーバで聞いて不思議に思ったのがこのカスィーダで、かつてフェリー上で歌いBさんが聞かせてくれた歌や、モスクで礼拝した際に祈ってくれたのがこのズィクルだったのだ。

 クルアーン学校で、市場で、家の中で。色々な場所でズィクルやカスィーダが歌われるのを聞いた。「音楽が禁じられた街」トゥーバは、実際にはメロディにあふれる街だった。また、トゥーバだけではなく首都の大学やカフェでもカスィーダを耳にした。カスィーダにはいくつか主要なメロディがあるようで自然と覚えていく。こんな風にセネガルのこどもたちは日常の中で、意味を知る前から神や預言者を讃える歌を聴き育つのだと思うと羨ましい気がした。

 やがてクルアーン学校で働くFさんの意外な過去を知った。今は日々クルアーンやカスィーダを学ぶ彼もかつてはクリスチャンで、かつ有名なミュージシャンだったらしい。インターネット上にはかつての彼のプロモーションビデオや、インタビュー記事がたくさん見つかった。カスィーダのメロディや意味を知り、ムスリムとなり今日に至るらしい。Fさんは「イスラームはキリスト教の続きなのです。」ということを強調していた。しばしば“隣人愛”の重要性について語る彼と接していると、本当にキリスト教もイスラームも連続したものなのだと実感した。

 

5−5.木工職人のバイファル、バカロレア受験生との対話 

 トゥーバの隣町ムバケでは木工職人Hさんの仕事場で撮影をさせてもらいながら、信仰や労働観などについて聞いた。彼もまた、日本で出会ったBさんや、旅行で訪れた南部カザマンスのミュージシャンと同じ、バイファルと呼ばれる独特なイスラーム解釈、実践を行うムスリムだった。Hさんは礼拝に使う数珠やアクセサリーを製作している。多くのバイファルと同じように礼拝や断食はしないが、よく働きお金やものを人と共有することをとても大事にしている。それまでに出会ったバイファルたちと同様、形式的ではない神への愛を感じた。

 「子どもの頃、父親に連れていかれたクルアーン学校から3回逃げ出したんだ。とても頑固なこどもだった。今では後悔している。ここに遊びに来るこどもたちでさえアラビア語で読み書きできる。そのことがとても辛いんだ」。作業をしながらHさんが語る。

 彼のアトリエにはしょっちゅう子どもたちが遊びに来る。クルアーン学校の授業がないときに集まってきては、遊びがてら木材にヤスリをかけたりしているという。Hさん自身はアラビア語ではなく、フランス語の翻訳でセリン・トゥーバの著作を読んだという。自分自身アラビア語がわからないことがコンプレックスだったが、それでもHさんのようにイスラームを自己のものとして深く感じ取れるということを知り安心した。

 このようなアラビア語や礼拝・断食などに必ずしもとらわれない信仰実践のあり方から、バイファルはイスラームへの“扉”と呼ばれていた。自分自身を振り返ってもフェリー上でのBさんとの出会いは大きなものだったし、トゥーバでは、自分と同様バイファルと出会いイスラームに興味を持ち、ルネ・ゲノンを読み、改宗に至ったというフランス人改宗者Iさんとも知り合った。インターネット上にも、同じようにバイファルを知ったことがきっかけで改宗した人の語りがアップされていた。

 中にはバイファルとして生きる諸外国の人もいたが、バイファルという扉からイスラームに入り、より深く学んでいくIさんのような人もいる。このようなセネガルのイスラームのあり方は批判されることもあるが、西洋とイスラームの一つの媒介という意味で、とても重要な役割を担っているように思えた。

 ムバケではバイファル以外にも、バカロレア受験生のJさんとの出会いがイスラームを理解する上で重要な契機となった。Jさんとは一ヶ月間同居していたこともあり、色々な話をした。「自由」についてどう思うか。「自由ってなんだと思う?したいようにすること?じゃあ誰かを殺すことは?自由なんて本当にはないんだよ」と応える。「神は死んだ」という言葉は知っているかという問いには「ニーチェでしょ。あなたや僕と同じ単なる人間に過ぎないニーチェが、どうやって時間や空間を超える神の死を宣告できるの?」と問い返され、戸惑った。クルアーン学校の教えと近代教育の矛盾はないかと聞くと「クルアーン学校に行って学んだ。おかげで僕は近代教育でも飛び級している。イスラーム教育は人間を成熟させるためのものだよ」と返ってくる。彼の言葉から、イスラーム教育が現代を生きる若者にとって一つの強固な基盤となり得ることが伝わってきた。

 彼の父親はもともとマルクス主義者であったが、セリン・トゥーバの教えでイスラームに目覚めたという。セネガルのようなイスラームが浸透した場所でも、必ずしも疑いようのないものとしてあらかじめイスラームが捉えられているのではなく、それぞれが自分の経験や考えに照らして、確信するに至っていることがわかった。

 

6.礼拝をし始めた

 こうした経験をする中で自分にとって一番の変化は礼拝をし始めたことだった。クルアーン学校で、住み込みで働いているFさんのところで間借りさせてもらったこともあり、最初は彼らとともに礼拝をし始めた。日本とは違いここではムスリムでない人の方が珍しく、礼拝するのはごく自然なことだった。礼拝をするたびに、なんとも言得ない心地よさを感じた。

 礼拝前には手足や顔を水で清める。これをアラビア語でウドゥーと言うと習った。道路の大半が舗装されておらずどうしても砂っぽくなるセネガルの日常では、このウドゥーはとても理に叶っていると思った。

 自分一人で礼拝するときは礼拝の手順を書いた小冊子を見ながら、一つ一つ動作を確認し、たどたどしく開端章を暗唱しながら礼拝する。礼拝をすることの大切さを実感する一方で、客観的に自分自身が礼拝する姿を思い浮かべて奇妙な気分にもなった。ただ、慣れていくとこの自意識も消えていくんだろうな、と思っていた。

 トゥーバの中心には大きなモスクがあり、礼拝の時間になるとアザーンが流れる。そして道端で、お店で、モスクで至る所で人々が礼拝をし始める。みんなマットと水の入ったやかんを用意しているので、アザーンが聞こえると水をもらってマットを借りて礼拝をすると言うのが日課になった。ウドゥーをしていると順番が違うよ、と教えてもらったこともあった。ここでは小さな子どものようだった。幾つになってもまた新しいことを学び直せるのだと思った。

 

 

5-7.風刺画反対デモ

 そんなある時、フランス発の週刊誌Jeune Afriqueにセリン・トゥーバの風刺画が掲載された。トゥーバだけではなくセネガル全土で大規模デモが起こる。セリン・トゥーバは自ら「預言者のしもべ」を名乗り、生涯をイスラーム信仰に捧げた。セリン・トゥーバの侮辱は単に指導者の侮辱である以上に預言者の侮辱に等しいものと捉えられているようだった。

 さすがにこの時は自分自身も「またか!」と反感を覚えた。大ジハードに生きる彼らに共感を覚えれば覚えるほど、「表現の自由」の暴力性を感じるようになっていた。「表現の自由」も確かに長い年月をかけて手に入れ、確立した権利だろう。しかし、その権利を持って繰り返し誰かを傷つけることが肯定されるわけではないはずだ。にもかかわらず二〇〇五年のデンマーク新聞社以降、シャルリー・エブド、Jeune Afriqueと風刺画=表現の暴力は止まらない。「なぜ彼らはこれほどまでに繰り返すのでしょうか。しまいには誰にも理解できなくなります。」イスラーム学者Fさんの言葉に共感した。

 デモのシュプレヒコールが「ありがとうセリン・トゥーバ!」であり、集まって「ライラハ・イララー」と歌う姿だったこともすごいと思った。ここでも他者批判ではなくあくまで自分たちの信仰や感謝のあり方を示す大ジハードの実践がなされていることに感動した。

 その一方で、さすがにすんなりと肯定できないと思ったこともある。それはセクシャル・マイノリティの捉え方だった。風刺画自体には自分も反感を覚えたが、その風刺画への反対が世俗主義への反発、世俗主義の象徴としてのセクシャル・マイノリティの権利の否定に結果的につながっているという現状があった。フランス的な価値観を政府が推進すればするほど、特にトゥーバのような場所ではセクシャリティが政治問題化されてしまうというジレンマがあった。

 しかしこの点も、一方的に西洋的な観点から解決できるものではなく、イスラームの論理を無視して進める植民地主義的なセネガル政府=フランスのあり方では決して解決しないだろうということだった。ルネ・ゲノンやジラールに学んだコンフリクト観に照らし合わせても、一方でフランスにおける一夫多妻を法的に認めず、セネガルで同性愛者の権利を拡大させることはできないだろうと思った。そしてこのような課題があるからこそ、自分はきちんとイスラームの論理に合う形で状況を改善できるよう考えていきたいと思った。

 

5−8.ムスリムとしての自覚

 セネガルでの三ヶ月弱の滞在が終わる頃にはすっかり自分はムスリムだと自覚するようになった。滞在中は多くの人に出会い、度々「ムスリムですか?」と聞かれた。当初は、まだよくわからなくて…と濁していたが、やがて礼拝を始め、トゥーバのひとびとの生き方を見聞きする中で、イスラームが善く生き、善く死ぬための道であると思うようになっていた。

 アラビア語は分からずクルアーンの内容も知らないことだらけ。知識はクルアーン学校の子どもたちよりもはるかにすくなかった。しかし、それまでに読んだ本や経験と照らし合わせて、この頃には「ムスリムではない」と思うことの方が難しかった。日本からの観光客を連れて大モスクを訪れた時にも、七年前と同じように「あなたたちはムスリムですか」と問われたがその時にも堂々と、そうです、と答えていた。

 

 

6.シャハーダと改宗後

1.大阪でのシャハーダ(二〇一六年)

 セネガルから帰国後、改めて留学生の友人に連絡を取った。すでにセネガルで礼拝をはじめていたので金曜礼拝に参加したいというと、シャハーダはしたのか、と言われる。マスジド(モスク)など正式な場所ではしていない、と伝えると「じゃあ次の土曜日にモスクでシャハーダすればいいよ」と言われる。本当にムスリムとしてやっていけるのだろうか、と正式な機会を前に少し躊躇したが、特に断る理由もなかった。

 正式に改宗すると子どももムスリムとなるなど色々影響があったが教育など含め子どものそのことはおいおい考えればいいか、という感じだった。イスラームへの悪印象から、親と関係が悪くなるということも聞いたことがあったが両親も、インドネシアからの留学生Aさんのおかげでムスリムのイメージはいいはずなので、特に問題になるとは思わなかった。お酒はずっと飲んでいなかったがセネガルで迎えた二〇一六年への年越しの際に飲み納めだと思って十分飲んだし、豚肉も今更食べたいとは思わなかった。

 そしていよいよ当日、セネガルで買った刺繍入りのムスリム服を着て茨木モスクへ向かった。数十人が見守る中、シャハーダの文を読み上げる。

 「アシュハド・ライラハイララー アシュハド・アンナムハンマドラスルッラー」

 イマームから改宗証明書を手渡される。日本人ムスリマの方が「おめでとうございます。これから頑張ってください」と声をかけてくれた。セネガルですでに礼拝を始め、特に困ったこともなかったので、頑張るという表現が少し意外だった。

 

2.頑張って信仰実践をするということ

 日本で再び暮らし始めるとこの頑張る、という言葉の意味も徐々にわかってきた。シャハーダは確かにムスリムとしての第一歩ではあったけれど、改宗のプロセスはまだ続いていた。

 アザーンも聞こえて来ず、ムスリムとともに暮らしていないという日本の状況では、礼拝は完全に個人の意思に任される。食事にしてもセネガルであれば当然ハラールで全く気にしていなかったが、日本では何を食べるかがいちいち問題となってしまう。すでにベジタリアン的な暮らしや、添加物も割と気にするほうだったので、表示を見るのには慣れていたけれど、日本で実践するには面倒なことも多かった。

 礼拝に関してもスマートフォンで礼拝時間の通知設定をしていたものの、見逃してしまったり、金曜の集団礼拝すら忘れていたこともあった。出先での礼拝はどうしようと考えると出かけるのも億劫になった。

 開端章を覚え、クルアーンの二章に移るとを読むと信者のふりをするニセモノのことが出てきた。しかもニセモノは自分を欺いている、という風に書かれている。もしかして、日本に帰って他の人の目がなくなった途端礼拝を忘れる自分も、この自分を欺くものなのでは、と思うと恐ろしくなった。

 

 

3.はじめてのラマダン月 

 

 そんな時にラマダン月に入り、生活のリズムががらっと変わった。まず、ラマダン中は日の出から日没まで食事をしないと思っていたけれど、これが違った。断食は日の出より早く始まる。ムスリムは日の出前の未明に朝の礼拝をするが、この未明の礼拝のさらにその前に食事を終える。

 太陰暦に基づくイスラーム歴のカレンダーは通常使っているものとは毎年ずれるのでラマダン中の夜明けの時間も変わるが、この年は、朝2:50までにスフールと呼ばれる断食前のご飯を食べなければいけなかった。夜食なのか何なのかよく分からない時間だったが、やはり、食べずにいると日中が厳しいのでなんとか時間を調節して食べるようにした。

 ラマダン中は水も飲まないので当然喉が乾く。そうなると礼拝前のウドゥーがいつも以上にとてもスッキリする。礼拝が待ち遠しいと思うようになった。

また、日没の断食明けにはまず果物やズースを飲んでお腹を落ち着け、礼拝してからご飯を食べるというのも理にかなっていると思った。何よりありきたりだが、ご飯を食べられるというのはそれだけで幸福なことなのだと感じた。

 ラマダン中は夜みんなで集まりご飯を食べたり礼拝をする。いつも以上に顔をあわせるので、それぞれ知り合い、一人では大変な断食もやがてそれほど気にならなくなった。

 

4.預言者はそんなことしていなかった

 改宗に際して家族や友人たちと問題はなかったが、むしろムスリム同士でイスラーム解釈や実践がずいぶん違うのだなと思って、そちらに気を使うことがあった。

 ある時アラビア語の翻訳を手伝ってもらおうと中東から来た留学生の友人に、セネガルで撮影したビデオを見てもらった。撮影したカスィーダは預言者と神を讃えるためだけに書かれ歌われる詩は自分にとってはイスラーム的なもの以外の何物でもなかった。しかし「君には真似してほしくないね。預言者ムハンマドはそんなことはしていなかったはずだし、そんな時間があるならクルアーンを詠めばいいんだよ」と言われる。

 しかし彼のようなアラビア語母語話者とは違い、クルアーンや膨大なハディースをアラビア語ノン・ネイティヴの人々が解釈・実践することは難しい。特にハディースには偽物も多いと聞く。そのような状況下でイスラーム学者の書いたカスィーダのような詩を通して、精神的、実践的に学んでいくのはいいのではないかとおもえるが、一方で「預言者はしていなかった」というのもその通りなのだろうし、それをどう判断するかの意見が分かれることも理解できる。ただ、他の〈サラフィー主義〉のようなカテゴライズと同様ズィクルやカスィーダを修行として用いる〈スーフィズム〉がイメージとして一人歩きしているように思えた。

 

6—5.風刺画の転載と警察の監視(?)

 ある時、今日の民主主義について考える授業を受講した。ムスリムの多い国で長年フィールドワークを行なってきた先生の担当で、イスラームに関する議論も 多かった。その授業の中で、シャルリー・エブド事件を取り上げたことがあった。教室の前方に大きくスライドが映される。驚いたのが、事件を紹介するためシャルリー・エブドの表紙、預言者の風刺画が大写しにされたことだった。ちょうどその前の週にレポートで自分が改宗したことを伝えていたにもかかわらず。授業の冒頭で自分の書いた内容にコメントがあったので、レポートを読んでいるはずだった。

 心拍数が上がり、迷いながらも、自分は改宗しているため、風刺画を見るのは辛いということを伝えた。すると先生は風刺画とは別のところを指さし「ではあちらを見ていてください」と言う。幸い、考え直してくれたのか、一瞬の間の後、すぐに次のスライドに切り替えていただけた。実は自分でもインターネットで同じ絵を以前見たことがあったが、その時はそこまで動揺しなかった。公共の場で晒し者にされる、ということに対して、ショックや怒りという感情が湧いてくるのだと、身をもってて経験した。

 その少し後で、書店でも同じようなことがあった。『社会的分断を越境する: 他者と出会いなおす想像力』という新刊が目に止まった。良いタイトルだと思い手にとって見たとこ風刺画問題を扱った論文があった。そこでパラパラと見ていると突然シャルリーの預言者の風刺画がまた目に入った。悲しくなって本を閉じて、書店を後にした。いつから風刺画はこんなにも気軽に転載されるようになったのだろうか?二〇〇五年、デンマークの新聞が風刺画を載せた時はどうだったのだろうか。

 こうした転載と同時に疑問を覚えたのが、警察からの監視や礼拝への立ち合いなどであった。2011年には公安警察からの情報の流出が生じ、モスクやハラールレストラン、食品店に対する監視や個人情報が蓄積がなされていたことがわかった。そうした情報を知ると共に自分自身も同様の経験をすることもあった。

 例えば、モスクに行き始めて出会った人に、同じ日本人改宗ムスリムかと思って話しかけた所、スーツ姿の警察官だったということもあった。名前を伝えてしまっていたので不安を覚えた。より驚いたのが、大学での金曜礼拝の時だった。礼拝に参加した時にふと後ろを見るとそこにもスーツ姿の警察官がおり、「これから毎週来る」という。大学構内の留学生寮であり、ただ礼拝に集うだけにもかかわらず、なぜ警察の立ち合いがあるのか、理解できなかった。留学生の友人にも何か言ったほうがいいのではないかと提案したが、「何も悪いことはしていないから大丈夫だ」「問題を大きくしたくない」といった反応であった。

 その後、モスクへの警察の訪問は、近隣の住人との問題回避や、またモスクへの嫌がらせの電話がかかってきたこともあったことから、セキュリティ上の意味合いがあることが理解できた。また、来られている警察の方とも関係は良好である。しかし、大学構内での立ち合いに関しては今も疑問を感じている。


 

6−6.生活自体が音楽になる

そうこうしているうちに、改宗後二年目を迎え、少しづつアラビア語が読めるようになり、あやふやな発音ながらもいくつかの章は暗記することができるようになった。幸い、今の所大学院生ということで、キャンパスにいる間は困ることはない。礼拝室もあるし、食堂にハラールフードもある。出先ではあまり目立ちたくないので場所を選ぶけれど、外でマットを敷いての礼拝は、室内とは全く違う、より四季を感じ、自然で、解放感のあるものだった。

 イスラームに知れば知るほど理にかなった実践や考え方なのだと感じると同時に、何も遠くへ来たのではなくて、ずっと探求していた「音楽」に出会ったのだという思いもわいてきた。

単に聴覚的な音楽ではなくて、生活そのものが音楽になる、というような。

 太陽に合わせて一日五回のリズムが刻まれる。月の満ち欠けに応じて毎月のリズムが刻まれる。いつかメッカに巡礼に、というのも一つの大きなリズム。

そして宇宙の始まりと宇宙の終わりという大きなリズムの中にあることを意識する。鳴り響く日々のメロディを他の誰かと共有する。生きることそのものが音楽になる。

9・11があって自己の生のあり方自体に疑問をもって、3・11以降は社会全体が指針を失っているようにも見える。日本や諸外国で、イスラームが他の人にどうイメージされ、どれぐらい意味のあるものなのかは分からない。自分自身も、今もなかなか理解できない部分やすぐにはしっくりことこないこともある。ただ、何事も「一生勉強だ」といわれるけど、その出発点にやっと立てた気がする。

 

この長々とした文章を読んでくれる人がどれくらいいるのかわからないけど、お付き合いいただき、ありがとうございました。

 何か得られるものがあれば幸いです。